今月の伝道標語

イメージ 1

今朝は電車通勤
駅まで總持寺の境内を歩く

今月の伝道標語


東日本大震災がおきてから二年四か月。今も全国から多くの僧侶が現地に入り、ボランティア活動を続けております。
ある日、現地で活動する老僧が、全国からくる青年僧に「なぜボランティアに来たのですか?」と質問されたそうです。尋ねられた青年僧は「僧侶として、何かしなければならないと思ったからです。」と答えたと言います。その返答を聞いて、少しばかり残念な想いを抱いたのだと、その老僧から伺いました。
僧侶であるからには人助けしなくてはならないという使命感。これは一見、良いことのように感じます。しかし考えてみれば、【僧侶として】というセリフは、宗教者としては〈こうあるべきだ〉という考え、つまり自分のこだわり・自我に縛られてしまっているとも言えます。
自分のこだわりに囚われている内は、操られてることに変わりありません。 老僧は、青年僧の、素っ裸の身心、本来の自己ともいうべき姿がそこに見えなくて、残念に思ったのです。
誤解しないでいただきたいのは、私は何もこの青年僧を否定しているのではございません。他者の為に活動する彼に、下心などありようもなく、大変立派な行為です。また他の例として、現在は必修科目として奉仕活動がある高校がございます。単位を取るのに必要だからする。就職に有利となるからボランティア活動をする。どれも入口として結構なことだと思います。
ただ、真実本来の自己が輝くためには、その先が大事だということ。 端的にいえば、仏教とは、仏教が定める〈悪いこと〉はせず、そして仏教が説く(善いこと)を行うことです。
道元禅師は、「悪いことを行わないと誓い、実践していく。そうするうちに悪いことがどうやっても行えなくなる」と明らかにされました。
「悪いことがどうやっても行えない」、言い換えるならば、「善いことをせざるをえない」という境地です。なぜボランティアに来たのかと聞かれたら、人々の悲しみを前に、来ざるをえなかったとしか答えようがない。スリッパが乱れていれば、そろえざるをえない。そこに理屈や迷いの入る隙間はなくなります。
坐禅も人助けも履物をそろえるのも、全て同じレベルで行えるのです。
この青年僧は、自分に向けてなぜ善いことをするのかと説明しているようなものです。説明する、理由づけする、言葉にするということは、余計なことです。
禅の言葉はそのことを大自然の摂理に仮託し表します。

如何なるか 是れ 諸仏出身の処
薫風 南より来たり 殿閣 微涼を生ず

仏様とはどんな方か?の問いに対し、あたかも南からの薫風が住居内を涼しくするような方、といった内容です。
その時その時のありのままの在り様に添って、自分自身を含む全てに説明抜きで、生きる事自体で体現していく。それではじめて真実に命が輝くことが出来るのです。
平成25年7月 (青森県 清涼寺副住職 柿崎宏隆)