12) 大学院

卒業制作の成績は6番だったので 私は自分の希望する大学院の研究室へ入れた
2年生の時 帆布の課題を出した教官 榎倉先生の研究室(2研)だ

2研に入った学生は私を含め4人 そのうち1人はタイからの留学生だった

日本語は殆ど話せなかったが 一躍2研の人気者になった
帰国したら大学の教授職が待っていると言う・・・将来有望だ

同じアトリエで作業をしている時 美術雑誌の記者が来て留学生の作品を取材していた
紙と竹を使い凧のような作品だった 後日 記事が掲載された雑誌を見せてくれた



それに比べ私は・・・

榎倉先生曰く「個展をした方がいいよ」
しかし貸し画廊を借りると1週間で30万円以上必要だった

私はバイトをしていたので それ位のお金を用意することも出来たが
30万円もの金を払ってまで 個展を開く意味を見い出せなかった

だから個展はせず 横浜市民ギャラリーを借りてグループ展を主催したり
画廊巡りで親しくなった画廊主の呼び掛けで 大谷地下美術展に参加した

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そして バイト仲間の誘いで藤沢市民ギャラリーのグループ展に参加した時のこと
最終日に会場にいると予備校時代の後輩が来てくれた

「ちょっと紹介したい人がいるんですけど」と言って紹介されたのは若くて美しい女性だった
「私 今度神田に新しく画廊をオープンさせようと準備中なんですけど・・・」

グループ展に出した私の「箱」作品が気に入り 画廊の杮落としに私の個展を開いてくれると言う
会期は2週間 費用は全額画廊持ち 夢のような話だった



私は7色のハートが入った7個の箱と7種の回る蝶ネクタイが入った7個の箱のほか
数個の新作「箱」作品を制作して発表した

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オープニングパーティはホテルのケータリングサービスが来た
たくさんの料理が並びスタッフがお皿に盛り付けてくれたので来場者は驚いていた

画廊のオープニングだから 画廊主はそうしたのだろうが
友人曰く「お前 大作家並みの待遇だな」

私は画廊主にお礼として 回る蝶ネクタイ1点をプレゼントした



さて 大学院修士課程の2年間はあっと言う間に過ぎてしまうもので
その後は博士課程に進むか 助手になるか 社会人になるか・・・

2年生になるとすぐ 榎倉先生に呼ばれた

「来年は今の助手の任期が終わり 本来なら君に助手を務めてもらいたいが
 芸大初の女性助手を誕生させたいと思っている
 白井だったらバイタリティがあるから 芸大を改革していける
 だから 君には申し訳ないが・・・」ということだった

私は収入を得て自立したかったため 大学に残るつもりは毛頭なかった
むしろ 温室のような藝大から早く出てしまい位だった

でも 榎倉先生にそう言われたことは とても嬉しかった

私の後 白井さんが榎倉先生と面接をしてアトリエに戻って来た時
「私にできるかなぁ?」と不安を見せていたが 翌年から立派に助手を務め上げ
見事に油画の改革を果たしたと後に聞いた



当時はバブル経済真っ盛り 売り手市場だったから引く手あまただった
私は就職活動をして 大手ディスプレイ会社の内定をもらった

大学院で私は黙々と箱を作り 修了制作は箱に入ったハートの作品を出した

目線の高さには 葉 土 砂 電子基盤をそれぞれ透明な樹脂で封じ込めたハート型のオブジェを
1つずつ箱に収めて展示した

そして壁の 高い天井付近ににひっそりと 白黒のハートが入った一対の箱を設置した
それは 私の気高い心の象徴として作ったものだった



(あとがき)
書き終えて 基本的には学生の頃と変わっていない自分に気が付いた
ただし 初心と言うならば 対象を捉える時 視点を変えて見ることの重要さを再確認した

そしてもう1つは 観察 考察を怠らないことだ
絵を描く時は 手を動かしている時間より 対象を見ている方が長いものだ