音楽に関する考察


やはり 私らしいパフォーマンスを考えるとしたら電飾スーツを着て演奏・・・

しかし それは2008年に開催したコンサートで行ったことだし
問題は 小林幸子さんら歌手の電飾衣装との違いを出すことだ

私の電飾衣装はモバイル・スーツだから 自由自在に移動出来るのが大きな違い

だから 街中を歩きながら演奏するのであれば その特徴を発揮するが
画廊内で開催するイヴェントでは コンサート会場などと条件は同じである

線が繋がっていようがいまいが関係ない

ピークレベルメーター・スーツはモバイルではないが
出力する音量を視覚化するため 歌手などの電飾衣装とは異なる

今まで私がピークレベルメーター・スーツを着ることはなかったため
私自身が着用して演奏することは 大きな意味があるかもしれない

しかし何を? 元々はフルート奏者のために考案した衣装がから
ギターには向かないし 人前で演奏するとなるとギターの練習を積まなければならない


そこで 大きく発想転換するならば 音を視覚化して見せるのではなく
逆に視覚情報を音響に変換する手法を実現すれば・・・

この発想は随分前から持っていたが 技術面でエンジニアの協力が必要なこと
私自身 制作に没頭していたため時間がなかったことから 取り掛かれずにいた

やってみる価値はありそうだが その装置(一種の楽器?)が奏でる音が
果たして美しいかどうか?・・・ 疑問が残る



原点に立って客観的に考えれば パーティーのひと時に
美しい楽曲と映像で観客を楽しませるのが目的だ

遠路遥々オープニングパーティーへ足を運んで貰うのだから
来て良かった! と思って頂けるオモテナシをするのが主催者の役目だ

画廊としてはパーティーを開き 作家と顧客(観客)とのふれあいの場を設ける
そして観客は(アート)作品を観に行き その作者自身と対話するだけでも大きな意味があろう

以前 ジム・ランビーが個展オープニングの際 DJをやっていたが
観客数名が彼の流す音楽の前で踊っていただけで 他の観客は冷めていたように思えた
学芸員に尋ねると 「好きなんですよ~ 彼はDJが」 ・・・

それも表現の一環かもしれないが 観客を魅了する域に達していなければ
ただのマスターベーションであり 他の作品も薄っぺらに思えてしまう

アーティストは作品で語るのだから 観衆の面前に出なくても良いのだろう

死んだ作家は出たくても出られないが 存命作家はオープニングパーティーに居るのが当然
という美術界の掟のような慣習がある



さて 話が飛んだので 整理して考える

今回の私の個展における主要作品は やはり電飾打掛スーツだ
アートシーンや街中へ私が着て出没している衣装を並べて展示すれば圧巻だろう

その衣装と対比するかのような別の衣装が画廊内に点在する
そしてアクリルケース内にはブティックで見掛けるような小品が・・・

私が過去に開催した個展は 画廊をブティックのような空間に仕立てるものだった
今回も その手法を用いて 鎌倉画廊のクールな空間をブティックへ変換する計画だ

そこで 今まで考えが及ばなかった音楽について考えてみた
商業施設には必ずと言って良いほど音楽が流れている

もちろんブティックも例外なく 小気味良いサウンドが流れている
それはなぜか?

静かだと活気がないように感じるから? 客の購買意欲をそそるため?

こんな話を聞いたことがある

音楽を流すと時間の進みが速く感じる
レストランやバーで音楽がないと営業にならないという
体感時間が長く 早々に引き上げてしまって売上が落ちる

なるほど・・・ しーんと静まり返った店で服選びをするシチュエーションを考えれば
時間の重圧から 何かとてつもなく重要な選択をしているような感覚になるかもしれない

しかし音楽が流れていれば 気軽に品選びが出来る



画廊をブティックに変換するインスタレーションならば 視覚的な要素だけでなく
こうした音響効果の導入が必要不可欠か?

しかし 美術館や画廊で音楽を流さないのはなぜか?

最近多くなった映像作品は音響を伴うが 他の作品へ影響を及ぼすため
個室を設けて上映するなど配慮がされている

美術館で音楽を流すと 作品が軽々しく見えてしまうのか? あるいは
作品が音楽に影響されてしまうのか?

確かに流す音楽によって その場の雰囲気が変わるし 気分も変わる

葬儀では暗い音楽を流し 結婚式では明るい曲を流す
通常 逆は有り得ない

また 音の大きさも重要だろう
コンサートと違って 商業施設ではあくまでもBGMに過ぎない

心地よく時間が過ぎてゆくような 作品の鑑賞に影響しないような
サウンドは あるのだろうか?

しかも和のDNAに響くような・・・