回想録

「衣」について

「人間の条件」展の3か月後 私は 銀座7丁目の画廊で個展を開催することになった その画廊は通りに面した1階にあり しゃれた造りになっていたため そこをブティックに見立て 「衣」の作品に絞って展示した キャラクター・迷彩・花柄といった 通常 スーツに…

人間の条件

私にとっての重要な出会いとなったそのキュレーターはアメリカ人で 彼は国際的に活躍する日本人キュレーターの事務所に所属していた 何度か会って話をしているうちに彼はこう言った 今度スパイラルで「人間の条件」展という展覧会を行うので 作品のプレゼン…

地価の作品

当時(1992年)の日本はバブル景気で地価が高騰し 日本で一番高額な土地は 銀座8-6-25で 2700万円/平方メートルだった 私はその近くの貸し画廊を借り 1m角の御影石に その地価と所在地を刻み 画廊の床に展示した また その場所で採取した土を小瓶…

社会問題とアート

箱の作品から脱却するために 試行錯誤しているとき ボロフスキーの大規模な展覧会のことを思い出した ニューペインティングと呼ばれていたその表現が新鮮だったため そこにばかり目が向いていたが 私はあることに気が付いた ボロフスキーの作品は一見すると…

箱からの脱出

私にとって箱の作品は 安易な手法だった 何かを入れてしまえば それなりに作品化してしまう ハートのオブジェを作って 箱に入れた 個人的な 愛 の表現だった 閉じた箱を正当化するために 意味の変容 を読んだ 外部と内部と境界について 記述があった 箱庭療…

就職先での出会い

当時はバブル景気で 就職先に困ることはなかった 加えて 芸大の大学院を出て企業へ就職する学生は少なかったため 面接試験へ赴くと 貴重な人材として どこの企業も歓迎してくれた 結局 私は学部2年生のときからアルバイトをしていたディスプレイの大手企業…

怖いもの知らず

学部2年生のときだったと思う 帆布を使って制作する課題があった ひとり1m四方の布が配られ どう使ってもよい というものだった 私は 布の四隅にハトメを付け それぞれにロープを結び 天井3点と床1点にヒートンを取り付け 布を張った そして エンジンオ…

芸大油画入試の昨今

回想録 書いてる途中だけど これは昨夜(2006年7月8日)の話です 関内で開催した展覧会の打ち上げで 芸大生たちと上野で飲みました だいぶ前から1次試験は 両国の国技館でやってる という ああ そう言えばそんなことを聞いたことがあったなー と思い出す 国…

合格発表

合格発表の日を迎えた 大学へ向かう足は震えていた 掲示板の前へ立ち 番号を探す あったー その場にしゃがみ込んだ 多分 受かると思っていたが それを自分の目で確かめるまでは不安だった 予備校へ行き 合格の報告をすると 歓声が上がった 皆 口を揃えて す…

2次試験(続き)

自画像を描きなさい 私は F15号キャンバスに向かい 悩んだ 他の受験生はエスキースを描き始めた キャンバスに何か塗りたくっている奴もいる 大したことはない と自分に言い聞かせても やはり他の受験生の動きは 気になるものだ 1次試験を通った人たちだ…

ひとり2次試験へ

私は1次試験に受かった まあ 当然かな と思った… すべて計算ずくの結果だ 予備校へ戻ると 油絵科で受かっていたのは 私ひとりだったことを知らされた 現役のとき 1次試験を通った3人組の1人のように 私は羨望の的となった が まだ合格したわけではない …

いざ受験(その2)

1次試験の2~3日目は 石膏デッサンだった 私は 石膏デッサンを憎んでいた 芸大も 古い体質が残っているんだ とがっかりした 私は 浪人してすぐ 石膏デッサンをうまく描ける技術をマスターしたので それ以降は ほとんど描かなかった でも試験に出たからに…

いざ受験(その1)

当時 相鉄線の星川が私の最寄駅だった 横浜へ出て JRに乗り換えて上野へ行く 現役生のときは 京浜東北線を使ったが 時間がかかる上 激しい混雑だった 1浪のときは その失敗を生かして横須賀線を使った 新橋 東京は地下ホームに到着するため 当時はあまり…

用意周到な受験準備

現役のとき 願書は期限までに着けばよいと考えていた だから受付期間の中くらいに出した で 受験番号は800番台 試験会場は絵画棟の7階だったと思う 受験生はエレベーターを使えないから 階段を上った 階段や廊下には 開場待ちの受験生で溢れていた こん…

材料との出会い

冬季講習は 敵陣視察のため 新宿の予備校へ10日間通った 狭いアトリエでひしめきあって描いた さすがに人気がある予備校は違う 当時 その予備校が芸大合格者最多を誇っていた 浪人するとき そこへ行くとも考えたが その予備校独特の画調があり 入るとそれ…

合格秘策その2

40培という高倍率に関しては 何とかなりそうだ と思った では 40人の中の1人になるため どうすればよいか 学生を受け入れる教授の立場になって考えてみた もちろん 技術的に優れた人材は 受け入れざるを得ない 上手な作品は 上位から順に合格していく …

合格秘策その1

11月頃だったかな… 新宿の予備校での公開コンクールに参加した 人物コスチュームの油彩だ その予備校には独特の画風があり そうした絵が上位になるという噂があった 私は その予備校の画風を模して絵を描いた いろいろな絵を模倣したので 簡単なことだった…

フォーカス を どこに

つまらないモチーフに向かい続け どうやったらよい絵にできるか 考え続けた 通常 物を見るとき 物体そのものを見てしまいがちだ が それを絵するとき 画面にその物体の形を描くと 物体以外の形が同時に出来る つまり 輪郭線が境界となって 内側と外側の形が…

画風の研究

横浜の予備校で困ったのは モチーフのつまらなさだった サッカーボールや消火器がよく登場し それをまともに描いても絵になりにくい 困った挙句 消火器をビルに見立て 背景の空を 黄色から緑色のグラデーションに塗った キリコの画風を引用したのだ 形而上絵…

姿勢が基本

私は代々木へ通うため 横浜から渋谷まで東横線に乗った が 毎朝のラッシュでシビレてしまった だらしないね~ で 考えた 代々木の予備校へ行かなくてもいい理由を まず 代々木の油絵科は 芸大の合格者が ほとんどいない それは 表面的な技巧で描こうとする …

構図の重要性

代々木のアトリエは 自然採光で光がきれいだったため モチーフの陰影が はっきり出て 描きやすかった ただ 午後になると隣地のレンガ色の建物に陽が当たり 窓が赤く染まる… さて Cクラスのモチーフは 白一色だったり黒一色だったり と それまで 描いたこと…

意識を高くもつ

浪人して 代々木の予備校へ行くと 最初にコンクールがあった 油絵科の昼間部だけで50人以上いたので 3クラスに分けるための試験だ モチーフを見て 唖然とした アトリエの中央に 牛骨と角材がロープで宙吊りにされ それを取り囲むように ぐるりと一周 座席…

浪人

芸大の2次試験を受けた3人組のひとりは 結局2次試験で落ちた やはり 芸大は狭き門なんだ でも その彼は 皆の羨望の的になった 多摩美の入試で補欠になったのは 学科が悪かったためだと聞いた 実技ではトップクラスだったらしい 彼は予備校の講師から浪人…

受験結果

男子3人組は揃って多摩美を受けた ひとりは合格 ひとりは補欠 ひとりは不合格 私は武蔵美を受けた が 落ちた 学科試験もだめだったし 実技も思ったように描けなかった あー 高校生活を満喫したツケが回ってきた 芸大は記念受験のようなものだった 倍率は4…

別れ と 出会い

その後 私は油絵科の人たちと話すことなく ひとり 黙々と絵を描いた そんな 11月のある日 彼女から話があると言われた 受験でたいへんなので もう一緒に行き帰りはしない と… でも それは方便だったと思う 油絵科の中で寡黙な私のことは デザイン科でも噂…

夜間部コンクール

高校の文化祭が終わり 高校生活を満喫した私は 講師との約束通り 9月下旬に夜間部へ移籍した 入るとすぐ 石膏デッサンのコンクール だった 2週間かけて描いたものを 講師陣が採点し順位を決める 私が通った予備校は 人数がそれほど多くなかったため 日本画…

予備校通い

絵を描くことは 小さいときからすきだった 小学生の時は 1日10円の小遣いをもらい わら半紙を10枚買って テレビアニメの登場人物や怪獣を描いた かわいいものだ 高校に入学して テニス部と演劇部に入った えっ 演劇部… って思うよね そう 長続きせず 帰…

事故が人生を変える

そもそも 私が美術大学を志望したのは 勉強嫌い だったから… 絵を描いたり 物作りは 好きだし得意だった けど 覚えることが苦手… 歴史の年号には 苦労させられた…1929… でも がんばって勉強してましたよ これから記述する事故が起こる前は… それは 高校…

プロローグ

自分史を書くなんて 年寄りみたいかな? 人生 もう終わっちゃった みたいに思われるかもしれない けど 高齢になったら 昔のこと忘れちゃうだろうから 今のうちに 書けることは書いておかないと… 自分史 っていうのが変だったら 回想録 でもいいかな? じゃあ…